これまでにも、大勢の海外のカジノ企業が、日本を開拓して第二のマカオにするのを望みましたが、日本国内でカジノを開こうとすると法律上の問題が山ほど立ちはだかり、いまだにそれは実現していません。

今から約3年前、日本政府はカジノを運営したい者に門戸を開いてチャンスを与えると決めたにもかかわらず、国民の間ではまだまだ根強い反対意見がぶつけられています。さらに、ギャンブルで得た利益に高額な税金が課される法律が成立したことにより、結果として、海外のカジノ企業の二の足を踏ませることになったのです。

では、いったい何が日本をそこまでギャンブル嫌いにさせるのでしょうか。一方、ギャンブルの一種であるパチンコ屋は、全国各地あちらこちらにありますよね。同じ通りに2店のパチンコ屋があることだってあるくらい、凄まじい人気ぶりです。

7世紀

日本における賭け事は、7世紀より前に始まりました。あの有名な書物「日本書紀」において、賭け事に関する記述が発見されています。685年、天武天皇はスゴロク(盤双六)と名付けられたサイコロゲームにはまっていました。ちなみに、当時のスゴロクは、西洋のバッグギャモンに似ているといわれています。

平安時代

ただし、賭け事が流行り病のように広がったのは平安時代でした。794年から1185年あたりまで、人々は闘鶏、競馬やコオロギを闘わせることまでしていました。時を同じくして、この頃の日本では、賭け事を生業とする者が生まれ、彼らは「博徒」と呼ばれました。

しかし、賭け事が一般的になるにつれ、次第に、それに関連する殺人や乱闘などの色々な犯罪が増加し、賭け事は厳重な取り締まりの対象となっていきました。その結果、1225年から1284年まで賭け事は禁止されたのです。ところが、いくら厳しい法律が作られ、ギャンブル行為が罰されようとも、賭け事が完全になくなることは決してありませんでした。こうして賭け事は、水面下でひっそりと、日本文化に浸透していったのです。

武士道

やがて江戸時代になり、当時の武士たちは、飲酒や宴会と同じく賭け事も控えるように命じられていました。残念ながら、いくら控えるように言われても、この時代の武士たちは相変わらず飲んで、賭けて、遊女の元に通いました。よくあることですが、実際にこの法律にしばられたのは、武士ではなく、一般庶民だったのです。平民には、武士よりも厳しい規定が科せられました。

1700年初めから1700年代半ばまで、博徒やプロの賭け師が大々的に処罰され、重い罰金が制定されました。しかし、当時の政府は、賭け事の取り締まりには、手こずっていたようです。政府にとっての利益とするために、賭け事は完全に禁止される代わりに、規制を受けることに…。この頃には、小規模の賭けなら許されるようになったのです。

サイコロゲーム(ダイスゲーム)の繁栄に関していえば、日本には豊かな歴史があります。チョボイチもその1つです。ある記録によると、浅草から千住までの3.7㎞の道が、賭け事をする人で埋めつくされていることもあったのだとか!

それから、もうすでにこの頃には、カードを使ったギャンブルゲームも存在していました。例えば、カルタは、16世紀にポルトガル人によってもたらされて以降、絶大な人気を博しました。

19世紀

江戸時代後期の19世紀には、賭け事は、都市だけではなく、全国の地方にも広まっていました。この頃は、重武装した任侠者たちと役人たちが争っていました。当時の伝説の人物として、国定忠治という人がいます。彼は、1850年に捕らえられるまで役人たちから逃げおおせたそうです。

江戸時代終盤に、鎖国していた日本が開国すると、西洋式競馬が大流行。1920年代には、「18」や麻雀などの新しいゲームも遊ばれるようになりました。

ここまで、全ギャンブル史をみてきましたが、最後に皆さんに質問です。日本政府がこれだけギャンブル反対の姿勢をとっているのに、なぜ今日でもギャンブル人気が高いのか、疑問に思ったことはありませんか?その理由は、ギャンブルはもはや、日本の歴史の一部といえるからでしょう。